2018-2-20 未分類

あくまでも可能性の話ですが、

中臣鎌足は日本に助けを求めに来ていた 百済王族の一人ではなかったかと。

ただ「日本書記」では「藤原氏」が宮司の中臣家が祖であるとしており、

外来人だったとは全く書かれていません。

蘇我氏の世の中では絶対に百済は救済されないので、中大兄皇子を引き込んで蘇我氏を滅ぼし、

百済救済をさせようとしたのが、意外に乙巳の変の真相だったのかも知れません。

しかし、中大兄皇子は668年にやっと天智天皇として即位出来たのですが、

中臣鎌足はその翌年に死んでしまいます。死の直前に藤原姓を天智天皇から賜ったようです。

そして天智天皇も672年に死んでしまい、息子を即位させるものの、

すぐに弟の大海人王子に皇位を奪われてしまいます(天武天皇)。

これが、壬申(じんしん)の乱で、史上初めての武力による皇位の交代だと言われていまが、

ここで、せっかく天智天皇をたてて勢力をつかみかけていた藤原氏の野望は、

一旦しぼんでしまいますが、 後にとんでもな方法で復活するのですがね。

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