2017-3-31 未分類
1904年8月19日。
旅順攻囲戦が開戦。

1万、2万、3万と日本兵士が、
二百三高地の頂上からロシア軍に
撃ち殺されました…

二百三高地は旅順港をめぐる
日露戦争の激戦地のひとつ。

多くの犠牲を払いましたが、
この激戦を日本軍は戦い抜きました。

そして、ロシア軍は降参…

普通であれば、
負けた国の兵士は命をとられたり、
捕虜となり、酷い扱いを受けるもの…

にも関わらず、降参した捕虜を
指揮官はプライドを傷つけないように、
丁寧い扱いました。

日本人が、何万、十何万と殺されているにも関わらず、
彼自身、戦時中に弟と息子二人を亡くしたにも関わらず…

敵将に対して、敬意をもって扱いました…

死闘を繰り広げ、互いに傷ついたからこそ
相手の痛みを思いやる…
相手が敵であろうとその存在を
尊重する…

その慈悲深さによってロシア兵は
癒されました…

まさに、武士道。

そんな生き方、日本人のあり方を見せた男こそ、

乃木希典です。(写真右下)



こんな逸話も残っています…

日露戦争の和平条約(ポーツマス条約)が
できるまで、ロシア人捕虜たちは
九州のある村に集められました。

そこでもロシア人はみんな丁寧に扱われ、
自由に村を歩き回っていました。

戦争が終わり、捕虜たちは
国へ帰されることになったのですが、
みんな帰るのを拒否したほど。

そんな時、ロシアの将校の中には、
「帰らなきゃいけない」と言われて
自殺した者まで現れたそうです…

それほどまで人を思いやる生き方、
それが捕虜であったとしても
丁寧に扱ったのが日本という国。

乃木の誇り高く、高貴な精神は
世界中が知られ、褒めたたえられました、、、

しかし、対照的に国内からは非難を浴びました。
旅順攻囲戦での十数万にものぼる犠牲…
日本国民の感情を考えると、
当然のことかもしれません。

偉人として扱われる一方、
非難も浴びる、、、

人にはそんな光と陰の部分が
あるのかもしれません。

そして、もう一人、
同じ時代を生きた日本人にも
その光と陰を感じることができます…

この男がいなければ、
おそらく、私もあなたも今のような
知識、能力を磨いて、
大人になることはできなかったでしょう…

いったい、この男にはどんな
光と陰があったのか?

ぜひ、あなたの目で確かめてみてください。

 

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